鬼ノ城とは
<鬼ノ城とは>
鬼ノ城は、標高400mの吉備高原の最南端に築かれています。眼下には古代吉備の中心地であった総社平野や足守川流域平野を望み、吉備の津(港)も間近に見えます。
かつて、朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(633)朝鮮半島の白村江の海戦で、唐。新羅連合軍に大敗しました。敵軍の進攻に備えるため西日本の要所には大野城をはじめとする朝鮮式山城を築城したことが『日本書記』天智4〜6年(665〜667)の条に記されています。一方、記録にはありませんが朝鮮式山城と同種遺跡と考えられている古代山城が16城あり、鬼ノ城もその一つと考えられています。
<鬼ノ城の構造と規模>
鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような山の形をしており、城壁は山頂部の8合目〜9合目にかけて鉢巻き状に巡り、全週2.8kmを測ります。
城壁の基礎には一列に列石を配置し、その上に土を一層ごとに突き固めた版築土塁が築かれ、その規模は幅約7m、推定高は約6mです。要所には堅固な高い石垣を築き、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力を持っています。このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m〜数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴があります。また、城壁の内外には敷石が配置されており、日本の山城では初の事例となりました。
城壁に伴う遺構としては、谷部に6ヶ所の水門(排水機能をもつ城壁)が設けられ、西門の近くには城壁の防御効果を高めるために、角楼が築かれています。また、出入り口となる城門は4ヵ所で発見されました。
城内には食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡や、のろし場、溜井(水くみ場)も発見されています。
<城門の紹介>
発掘調査により4ヶ所の城門が発見されました。各門の共通点はいずれも床に石が敷かれていおり、門扉が取り付く門礎には「方立」、「軸摺穴」、「蹴放し」「刳形」が成功に加工され、「蹴放し」が刻出されているため扉は全て内開きとなります。城門の柱は各門とも地中に柱を埋没させて建てた掘立柱です。
また、外部から入場しようとすれば、城壁の下から門の床までに約2〜3mの段差があり、容易に入城することができません。ただし西門のみは例外的にスロープが取り付いていました。
1. 西門と南門
西門と南門は12本の角柱で構成され正面3間(12.3m)、奥行き2間(8.3m)を測る大規模な城門で、中央の一間が石敷きの通路になります。この角柱は一辺55cm前後の非常に大きな柱を使用していました。
2つの城門を比較すると門扉よりも場内側には石段が築かれていますが、西門は4段、南門は7段で構成され、通路の壁面を構成する石垣の形状がそれぞれ異なります。
このような細部の違いは認められますが、二つの城門は基本的に同規模・同構造の城門と考えられます。
2.東門と北門
東門と北門は規模や構造がそれぞれ異なります。東門は正面1間(3.3m)、奥行2間(5.6m)の6本柱から構成され、柱は全て丸柱を使用していました。そして壁面の位置一部に石垣が築かれています。なお、東門は尾根筋の近くに位置しており、現在この尾根筋には登山道が山麓の阿弥陀原へと通じています。もしかすると、東門へ至るかつての登山道を踏襲しているかもしれません。
北門は鬼ノ城の背面(北側)に位置し、裏門にあたります。規模は間口一間(4m)、奥行3間(9.6m)の8本柱で構成されており、門磯には角柱を使用し他の柱は全て丸柱という特異な組み合わせでした。
床面の石敷中央には、城内からの流水を排水するため、石組みの排水溝が構築されています。
北門は西門・南門に較べ小規模ですが、左右の城壁が扇のように展開していることや、城門の前に石垣を築いて谷筋からの侵攻を妨げるなど、随所に防御効果を高めた工夫が認められています。
<鬼ノ城の整備>
総社市教育委員会では平成13年度から史跡整備に着手し、平成16年度までに西門や角楼から0水門までの城壁を復元する予定です。古代山城としては、初めての大規模な史跡整備になります。
角楼
角楼は城壁の大きな屈折点に築かれ、城壁側に向かって凸状に突出しています。角楼の機能は城壁の死角をなくし、突出部から横矢で攻撃できるなど、西門の防御を高めるために築かれたと考えられます。こうした機能を理解して頂けるように、角楼の背面に造られた石段の最上段と、同等の高さ(約5m)までを復元しました。
散歩道を通り鬼ノ城へ来跡されると、見上げるような角楼が我々を圧倒します。
西門
南門と並び鬼ノ城最大級の西門は、発掘データを基に復元すると、門の床から横までは約13m、城壁の基礎からは約15mにもなります。内部は3階建となり各階は1階が門扉のある石敷きの通路、2階は南北に連なる城壁の連絡路、3階は見張り、及び戦闘の場という役割が考えられます。
その堂々たる威容は瀬戸内海を大和に向かって東進する敵船団や、総社平野に殺到するであろう敵軍を見据えるかのように、天空へとそびえ立ちます。
城壁
本来の城壁は版築工法を用いて幅約7m、高さ6mにも及ぶ巨大な城壁が造られていました。しかし、壁面はすでに崩落しているので、復元に際してはできるだけ古代工法で再現される事になりました。その工法は城壁の前面に支柱を等間隔に立て、支柱の間に板を積み上げて固定し、いわば枠型を形成します。そして内部には土を水平方向にならし、一層ごとに締め固めて築きあげます。
こうした城壁に伴う版築の復元は、全国初の試みであり注目されます。また、古代工法のみならず、様々な復元方法を現地で施工する予定です。